アイ・アム・サム

オムツやミルクの世話から解放されると、動き回る子どもから目が離せなくなり、小学校に上がってようやく子育ても少し楽になったかと思うと、成績の心配が始まり、受験生の親となり、結局親は、ずうっと子どもを心配し続けなきゃならないみたいです。
でも、その間子どものことばかり考えて心配ばかりしていては、親の人生は子どものためだけに終わってしまい、子どもにとっても親がうっとうしいだけの存在になってしまう気がします。

うちの下の二人は危うく誘拐されそうになったり、息子などはさらに、ケガで救急車に乗ったり、迷子でパトカーに乗ったりという経験の持ち主です。長女だけは、知らない人に声をかけられても、答える気もないし、気づきもしないで通り過ぎるような子だったので、何事もなかったようです。(危険な目にあってても気付かないかも)
何度も血の気の引く思いをさせられています。
ですから、家でひたすら子どもの帰りを待つだけの生活を送っていたら、サイレンを聞く度に、うちの子ではと気になって、気が狂いそうになったでしょう。
何をしでかすか、どんな事に遭遇するかわからない子ども達ですが、親は子どもの生命力と判断力を信じて放任することにしました。危うい目に合っても、機転をきかせて逃げ帰って来たのですから、それぞれの能力を信じるしかありません。
どんなに頑張っても親が四六時中ついて回ることは不可能ですし、結局は自分で考えて判断して行動するしかないのですから。
その代わり、一緒にいるときは、できるだけ楽しく過ごしたいと思っています。
(そりゃあ、共同生活においてのモラルでキレることは多々ありますけど、基本的にこうすべきという指示はしません)

人間なんて、いつ運命が尽きるか誰にもわかりません。
だから、お母さんは美人薄命で永く生きられないはずだから、自分たちで生きていけるようにするんだよ、と小さい頃から言い聞かせてきました。(すでに十分生きてるから、美人でないこと証明しちゃったねえ、と言われてますが)
子どもだって、親より長生きできる保証はどこにもありません。
将来のことを見据えるのは必要ですが、将来のために今の生活をすべて犠牲にすることはないと思うのです。
だから、ほとんどの判断基準が、自分が好きかどうか、楽しいかどうか、自分にとって役に立つかどうか、です。
親が自分の夢を子どもに託すことはありえません。
例えば、親が東大に行ってたから子どもも東大へとか、親に学歴がないから子どもは東大へとか、親がレールを引くなんてナンセンスです。
子どもを東大に行かせたいと思うなら、親自身が自分で東大を目指せば良いでしょう。
子どもに何かをやらせたいと思うなら、親自身がやれば良いのです。
年齢なんか関係ありません。夢は、自分で作り自分で叶えるものです。

うちの息子も、二度目の大学受験真っ最中です。
浪人中勉強ばかりやれるわけもなく、ギターにゲームに映画と、十分な息抜きをしつつ迎えた本番です。(大丈夫かな〜)
それでも、勉強なんか大嫌いで、受験を決めた高三までほとんど勉強して来なかった息子にしてみれば、勉強の習慣がつき、勉強のコツがつかめ、やればやるだけ身に付くんだという実感を感じることができたのは、かなりの成長です。
浪人してまで大学なんか行く気はない、と言い切っていたのに、ある程度勉強して、もう少しという手応えを感じたのか、失敗したら、やっぱり浪人して勉強し直す、と言い出しました。
うちの子にしてみれば、画期的なことです。
父親は、ろくでもない大学なら行かなくてもいい、と言ってるようですが、大学は親の見栄で行くものではありません。
本人がやりたい学科を見つけ、行きたい学校を見つけたら、どんな学校でも勉強の場となるはずです。
成功するかどうかは際どいところですが、子どもが将来の夢を見つけ、勉強したいことを見つけ、そのために自分なりに頑張ってきたことは、誉めてあげたいなあ、と思ってます。

それにしても、うちはみんな勝手に息抜きだらけで緊張感のない受験生家庭ですが、真面目な受験生家庭の親御さんは、受験生本人より疲れてるでしょうね。
息抜きしてみてはどうでしょう。


「アイ・アム・サム」という映画をご覧になったことあるでしょうか。
七歳までの知能しかない父親が、七歳以上になる娘を育てられるか、ということで裁判になるお話です。
この父親は、親として根本的に必要なものを持っていて、こんな親子っていいなあ、と思わせてくれます。
ビートルズナンバーが効果的に使われていて、ビートルズを知っている人には別の楽しみもあります。

子育てって、こうすべき、こうあるべき、という枠を作ってしまうと楽しめないけど、こう育っちゃったか、と思いつつ今ある状態を受け入れていけば、案外楽しめるはずです。